

MATCHBOX FORD CROWN VICTORIA TAXI
さて。今年の9月で当ブログは5周年を迎える。5年。長いようで意外と短い時間。子供の頃の5年とはわけが違うなあと感じる機会が増えたのは歳を重ねた証拠か。
毎年欠かさず、とは行ってないのだが誕生日に何かと記事を書く事が多いので、今年は節目に合わせてしっかりと。
この5年を振り返るという意味で、今年の誕生日のエントリーに選択したのは2009年のメインラインで登場したフォード・クラウンビクトリアのタクシー。タクシーとしてカウントするなら2009年に登場したこのモデルが1stエディションとなる。
2019年の誕生日でエントリーに選んだのもクラウンビクトリアのタクシー。あちらは金型改修後のモデル。
既にクラウンビクトリアの生産終了から12年が経とうとしていて、アメリカではパトカーでもタクシーでもその数を減らしている最後のアメリカンフルサイズセダン。
マッチボックスのクラウンビクトリアは故リュウ・アサダ氏がデザインをし、その出来栄えは非常に優れていて、3インチではマッチボックスのこれが一番ではないか……というのは何度か記述したように思う。
金型改修前のこのモデルはタクシー行灯が別パーツで、ハンドルが円柱なんかではなくしっかりと抜けている他、ムービングパーツでも無いので開閉ギミックがない一方で、インテリアには警察データベース用と思わしきラップトップと手錠が助手席に置かれているのが特徴。タクシー用にわざわざインテリアを作り直さなかったようす。

3年前のウォルマート限定のモデルで同じグラフィックで金型が現行の行灯とパーツが一体形のモデルが登場していたり。当ブログでも紹介済み。2つを比べたのもそっちなので敢えて今回はやらず。というより引っ張り出すのが面倒というだけではあるのだが。
ここだけの話、今回紹介しているこのモデルはその時のと同じ。タイヤだけリアルライダーに換装済み。
5年近くやっていると、当方の置かれている環境なり、撮影環境なり、収集のメインなり、色々時の流れを感じる部分が多い。
一つの区切りということで一度、これまでの4年半弱を少し振り返ってみたく。
まずはブログに直結する撮影環境から。
今の今まではガラステーブルの上に置くなり、テーブルの上に紙を敷いてセリアのコンテナで背景を覆い隠す事が多かったと思うが、引っ越しをした事で常設の小さなジオラマを置くスペースを確保出来た事で、撮影はジオラマ上に切り替える事が増えた。
また、2年前の1月後半以降はwakiyaku氏に制作を依頼した、所謂「推し」のミニカーサイズフィギュアをコンパニオンとして配置している。傭兵、そしてアンソニー。考えてみると、推しも一人から二人に増えたなあと。これも大きな変化。
そして収集対象の変化。
当ブログを初めた頃はマッチボックスとホットウィール、マテルの製品をメインにトミカとマジョレットを購入していたものが、ジオラマ会に顔をだすようになった事で、メインがトミカに移った。
無論、変わらずマッチボックスとホットウィールも購入しているが、ある意味これが当ブログの中で一番の変革とさえ思えるのはこの変化によって収集テーマが結構変化した事。
マテル製品をメインにしていた頃は「サイバーパンク的」なアメリカ物をテーマに据えて、現行車やネオクラシック、場合によってはコンセプトカーまでを収集対象にして「ゲーム的」でもある架空のアメリカというのをテーマにしていたものが、今ではより細分化され、「日本の街中で見かける車」「ニューヨークを走っていそうな車」と「好きな車」に分かれた。
これを言うと、「いやいや、そんなことないでしょ」と言われるだろうし、実際まだまだ「そんなことはない」のかもしれないが、2020年代に入り、当方が感じるのは当方が物心付く頃にイメージされていたような「サイバーパンク」の世界が現実になるまで、もうあと僅かと言えるような所まで達してるのではないか、という事。
車のデザインの自由性が上がり、急速にBEVやFCV、PHEVが普及。まだまだ主流はガソリン車に違いないが、以前よりも街中で見かける機会が増えたのは事実。
アメリカも日本も、タクシー車両はセダンが主流ではなくなり、中国メーカーや新興EVメーカーも伸びて居る他、COVID-19による生活の変化にウクライナとロシアの戦争を発端に広がる世界全体の疲弊感と閉塞感……それでもなお、変化し続ける技術。
サイバーパンクで描かれた成熟しきった社会そのものが今現在広がっているように当方には思えてならず。
そしてアメリカという国が虚構であることをどこか理解してしまった事も収集対象の変化に影響をもたらしたと言えてしまう。
今の時代、新しい価値観が生まれ、そして作り直されるまでの時間が非常に短くなった一方で、成熟しきったことでその変化が最小限に留まるようになったものも少なくない。
「現在」に生きる我々はその変化に気付けないだけで、振り返ったとき、実は変化していたのだと気付かされるのだろう。そして10年一昔と言われた今、当方が思うのは「5年一昔」に変化して居て、一方で成熟しきった事でどこか不変的になったものも多いのではないか。
と、今年の誕生日の記事はこれくらいに。以下、雑記と音楽の話。

にほんブログ村
何年経とうとも、割りとずっと聞いてるなあと感じるのは豚乙女。
一時期よりはやはり聴かなくなったのは東方Project自体から少しだけ遠ざかってる部分もあるかもしれないが。
モルダバイトとは、隕石が地球に衝突した際に生成された天然ガラスで、パワーストーンとしてその知名度を持っている鉱物。
歳を重ねる事、親も合わせて歳を老いていく事や、著名人の訃報なんかを耳にする度、当方の中で少しばかり「死後」を考えてしまうようになって来ている。
この曲の歌詞にある、「楽園を求めて彷徨い朽ち果てる」「輪廻を片手間に信じて」 なんてフレーズは仏教的な考えに思えるが、死んだ後の事は死んだ後にしかわからない。そして今生きている人の中に死後の事がわかる人なんておそらく誰も居ないのではないか。
でも生き物である以上、死は避けられない病。不老不死の研究をしている人達が居るのも、精神世界の話まで飛び出してきているのは、その「死」を克服したいが為。宗教もまた、いずれは迎える死の恐怖を克服する為なのではないかと思う。
でも、精神だけを生かしておくという話を聞いて思うのは、もし、すべての記憶を何らかの形で外部においておく事が出来たとして、その記憶の持ち主が亡くなった時、高性能でその持ち主と寸分違わない、アンドロイドにその記憶を移して、その人として動いてもらったとして。
果たしてそのアンドロイドを持ってしてその人は「生き返った」と言えるのか。同じ意識が戻ってきたと言えるのか。
当方には何もわからない。単にその今は亡き人物の記憶を持っただけの別の「意識」があるのではないか。そう思ってしまうのだ。
では、死んでしまえば、それでおしまい。その先には無しかないのか。
そう考えた時に、それが恐怖だったりする一方で、世の中には生まれ変わりでしか説明が出来ない事象があった事も留意すべき点で、また、証明こそされて居ないだろうが、確実に「意識」というものが存在する以上、死後の世界に類するものが無いとは断言できないと思えるのだ。
否、きっとそう信じたいのだろう。そうやって信じたいという思いから生まれたのが信仰というもの。
少なくとも日本におけるその信仰は輪廻転生の考えが非常に強い印象があるし、実際生き物はそうやって輪廻転生を繰り返しているのではないか、と。
最近、前は死に対してあまり恐怖を感じなかったというか、今にしてみると解像度が低かったからこそ、無知故に恐怖心を抱かなかったものが、今は徐々に「死」に対する解像度が少し上がった事で「無知故に恐怖する」段階に変わったのを感じる。
でもそれでも、時折虚しさを覚えてしまうのは何故なのだろうか。何をしても埋められない物があるように思えてならないのは何故なのか。きっと生きている間は決してその埋まっていない感覚から抜け出せない気がしてならない。